昭和48年7月1日 月次祭
中村良一
今朝からのご教話に、今までは、どこへ参っても、神がものを言うて聞かせると言うことはあるまいが、と言う御理解でした。いわゆる、片便の願い捨てであろうがと、大変珍しい表現をもって、教えておられます。片便の願い捨て。そこで、金光様のご信心をさせていただきますと、神が、もの言うて聞かせてくださる。神様が、ご返事を下さる。それを、合楽では、お取次ぎを願い、お取次ぎを頂くと申しております。ね。お取次ぎを願うだけ、お願いをするだけならば、これは、片便の願い捨て。聞いてくださるとやら、下さらんやら、ただ、一生懸命拝むだけである。お願いをして帰るだけである。ところが、お取次ぎを願うたら、お取次ぎを頂いて帰るというところに、片便の願い捨てではなくてです、ね。願ったことに対する、いわば、ご返事を頂いて帰ることが出来る。ですから、お願いだけで帰ると。いわば、お話は聞いておっても、聞いただけで帰るというのであっては、これは、やはり、片便の願い捨てと同じ事になるのです、結果は。ね。ですから、お願いをし、いや、お取次ぎを願って、お取次ぎを頂いて帰って、初めてそこに、私共が助かっていくこと、または、神も助かり、氏子も立ち行くという様なおかげに成就していくのでございます。片便の願い捨てではなしに、ね。お参りをしたが最後、何かは、頂いて帰らなければならない。ね。頂いて帰らなければ、馬鹿らしいという事になるのです。ね。そこで、今日は、皆さんに聞いていただく事をです、ね。一つ、本当に聞いて帰って、それを実行に移させてもらう事の信心生活になって頂かねばならんと思うのです。
今日は、朝の御祈念の後に、桜井先生達がご夫妻で、参って、色々お届けをされた後に、昨日、久留米で、熨斗袋を買わせていただくために、本屋に参りました。ところが、ふっとそこに、目についたご本が、念力という、ご本が出ておった。この頃は、何とはなしに、人間の心がです。やはり、心を目指すという時代が、何とはなしに、そわそわしてきた感じがする。物、金、ね。医学とか、化学とか、様々な学問があるが、もう、学問だけではいけない。人間が、人間の力で、月の世界にも行けれるというほどしの開け方をした人間がです。これだけで、人間が幸せにはなれないのだと、いうところから、この頃からも、私が、読ませていただいた、いうならば、三次元の世界から、四次元の世界へといったような、ね。その、次元の違ったものへの、憧れ、憧れとまでは行かんでも、何とはなしに、そういうものを求める心が、人間の心に、うごめいてきたという感じがする。念力ということでも、これは、私は、パラパラっと、まぁ、見せていただいたんですけれども。えー、、ま、密教辺りの、念力というような事が、色々、出ておりました、見出しに。こら、なかなか、面白そうな本ですなぁ、と言うて、見せていただいて、それを、ここへお届けになって、そこに出されますから、それを頂いて、あの、御祈念をさせていただきよりましたら、一念力ということを頂きました。一念力。念力の上に一の字が。金光様のご信心は、この、一念力で行かなければいけないという事である。念力という事は、もう、様々な、念力の手段、方法というのがあるのです。そして、この念とか、思いとか、ね。それが、力ともなってくる時に、物を動かすほどしの、いうならば、幸せの元を作り出すような、不思議な働きがあるんだと。ね。御道の信心の中でも、あの、念力の強い先生方がおられます。
福岡の初代の吉木先生なんかの、御祈念力と言うものは、大変なものであったらしい。吉木栄三の、念力にかけてはね。祈念力にかけては、吉木栄三の右に出る者は居るまいと、四神様が仰ったと言うほどしに、念力の強い。今でもその、やっぱり、流れを組んでおる、福岡関係、あの、三井教会の親奥様なんかは、あちらでお育ちになっておられるのですから。奥様の御祈念を頂きますと、もう、こちらで、拝んでもらいよる者が、もう、本当、助かるごたる。もう、黙って聞きよるだけで良い。もう、例えば、私が、お願いすると、どはぁ、大坪総一郎が、大坪総一郎がと言うて、繰り返し繰り返し、願ってくださる。それでもう、これで、おかげ頂く、助かるといったような気がするんです。念力ですね。例えば、そういう念力な事が、様々に、まぁ、書いてあるご本でございましたが、私が、頂きますのは、一念力という事をいただいた。一念力と言うのは、御道の信心は、どこまでも、一念力で行くのが本当だという事なのでございます。そんなら、一念力とは、どういう事であるか。
今日、日曜ですから、特別奉修委員の方達の御祈念がございました。北野の中村さん、総代さんの中村さん、ね。お婆ちゃんのほう、今日は、久し振りでお参りしておった。そして、御祈念前にも、お届けをしましたんですけれども、御祈念が済んでからも、また、孫の康代さんの、お届けをするんです。もう、御祈念が終わってから、奉修委員の方達が終わってから。あらあんた、さっきからも、康代さんのお願いしよった、またお願いすると、こら、何とはなしに、お願いしなければおられない心が動く。今日、初めて、初めてじゃない、久し振りで、康代が参ってきとるのに会いましたら、もう、これ以上は、痩せられまいという様な姿で、それでも、きつかろうと言うたら、んね、いっちょんきつなかち言う。はぁ、おかげ頂いておると思うけれども、その見た姿がもう、これより以上、痩せられまいという様に痩せておる。お婆ちゃんとして、その事が、やはり、まぁ、さっきお願いしたけど、また願わなければおられない心でございましょう。そこで、私が、その、一念力の話をしたのです。
合楽教会の大発展という事は、この頃、しきりに言われます。教会と共に助かろうと言うのです。教会が、大きくなった時には、私共も、大きくなっておる。教会が、借金払いが出来た時には、私共の、借金払いも出来ておる。親先生の身体が健康になられた時には、私共も、一緒に健康になっておる、という様に、例えば、その、合楽とともに助かろうと。何故、合楽教会の大発展を願うという事が、銘々のおかげになるかと言うと、合楽教会が、発展をするという事は、世の中の難儀な氏子が、それだけ、余計に沢山、助かるという事になる。いうなら、神様の願いであるところの、難儀な氏子の取り次ぎ、助けられると言う場が、いよいよ繁盛すると言うことになる。いうなれば、神様の願いでもある。このお広前が、大坪総一郎の、言うなら、才覚で建立されたとは、とても思われない。なるほど、神様のおかげ、いや、神様が、お建てになったんだというものを、そこに感ずる。感ずるならば、そのお広前の大発展を願うという事は、そのまま、神様の願いと共にある事になる。
今朝から、お取次ぎさせていただいた、ある方がです。ね。合楽教会の大発展、合楽教会の大発展を、合楽教会の大発展をと、願わせて頂いておりましたら、ね。心の底から、有難いものが湧いてくる。はじめの間は、そうでもなかった。合楽教会の、例えば、発展を思う者、願う者、それは、みんなそうではなかろうかと。特に、北野の中村さんなどは、私共が、一番難儀な時分からの古いご信者でございますから、どうでも、当時の椛目の大坪先生であるが、日本一の先生になられるように、日本一の御教会になられるようにという事を、いつも願いよると言うか、思いよると言うのである。皆さんも、そうでしょう。ご縁を頂いておる、合楽教会が発展しよら、やっぱ、嬉しいでしょう。だから、思わんわけではないでしょう。親先生の事も、やっぱり、思いよるでしょう。皆さんが、挨拶ではなかろうように思うんです。もう、この頃のように、私が、何かなし、身体が弱いと。こりゃもう、本当に、つい、淋しいことも申しますと、親先生、そんな事を仰らずに、とにかく、親先生には、一年でも長生きしてもらわなければと言うのが、お世辞ではない、本当に、そう言うて下さるように思う。だから、私も、おかげを頂かなければならんと思う。だから、そういう風に思うて下さる方、または、教会のことを、ね。大発展を遂げていくことを思うておられる方は、沢山、あろうけれども、願うておられる方はあろうけれども、本当に、ほんなら、そこに、それを祈る、願うと言うことにはなってこない。ね。そんなら、御初穂でも奉って、合楽教会大発展をお願いいたしますと、繰り返し願うというところまでは行っていない。中村さん、そういう意味では、あんたは、第一人者であった。親先生のことを思うことも切ならば、教会が、立派な教会に、日本一の教会になるという事を、夢のように願うておられたのじゃないか。ね。それをね、例えば、願うという実感はなくても、その事を思うておるのだから、やはり、一生懸命、それを思い、願い、繰り返し、言葉の中に、合楽教会大発展、合楽教会の大発展をお願い申しますと言うて、願うておると、それが、段々です、実感になってくる。そこからです、不思議に喜びが湧いてくる。何故、喜びが湧いてくるでしょう。
今日の昼の御祈念の御理解の中に、最後のほうに申しておりますように、ね。私のほうの親戚に当たります、福間から参ってくる親子連れがございますでしょう。昨日から、お参りしてきております。今晩も、おかげ頂いている。今朝から、ここで、お届けいたしますのにです、ね。ある、不和の姿、いうなら、子供が親に、または、家内が主人に、ね。もう、それこそ、親子喧嘩をし、夫婦喧嘩をしておる、その様相に触れたときです。もう、その目つき、その顔色というものは、もう、見られたもんじゃない。肉親のものが、相争うときの見苦しいこと。何と、浅ましいことであろうかと、しみじみ思うた。合楽で、御理解を頂いて帰って、そして、はぁ、ほんに、あぁそうだ、あぁだと思うて帰っておる矢先に、そういうものに直面した。ね。私の姿の中にも、心の中にも、あぁいうものがあった事に気付かせていただいて、これからは、主人に対して、子供に対しても、あぁいう姿は取るまい。あぁいう、いわば、えげつないことは言うまいと、心に誓うた。という事は、神様に誓うた。そしたら、止め処もないほど、ありがた涙がこぼれてきた。今日、お届けをしながら、涙をこぼして、その事をお届けしておる。ね。
人の不行状を見て、わが身の不行状になることと仰るが、人の不行状を見て、はぁ、あぁいう不行状の姿というものが、浅ましいものだ、見苦しいものだと見た時に、自分の心の中にも、そういうものを発見した時に、そこを改まろうと決意した。そしたら、止め処もないほど、ありがた涙がこぼれると言うのは、どういう事なのでしょうか。ね。そのことを、神様が、待ってござった。その事を、神様が願うてござった。その、神様の願いに、応えることになるから、神様のお喜びが、そのまま、その氏子の心の中に、喜びになって現れてくるのです。合楽教会大発展、合楽教会大発展を願わせてもらうこと。その合楽教会の大発展が、難儀な氏子が、少しでも多く助かることの場であるのですから、発展するという事は、そのまま、神様がお助かりすることであり、神様の願いが成就することである。その願いを、私共が、一心不乱に、繰り返し繰り返し、合楽教会大発展、合楽教会大発展を願わせて頂いておりましたら、心の底から、喜びが湧いてきたと言う。その喜びの心を持って、中村さん、康代のことを願いなさいと、私が、今日申しました。あーたが、合楽教会のことを思うておることも、親先生のことを思うておることも、まぁ、言うならば、第一人者と思うけれども、お取次ぎを頂いて、お願いをする。または、御祈念の中に、繰り返し繰り返し、その事を願うという事までは言っていなかったんですけれども。最近は、その事が、しきりに、ここで言われておる。合楽教会の大発展を願いなさい。親先生、もう、本当、神様は見通し。実を言うたら、私は、今日の御理解を頂いて、御祈念をさせていただきよってから、合楽教会大発展ば願わんならんと思うて、御初穂袋のところへ行ったち言うわけです。ね。
そしたところが、一番上に、北康代、いわゆる、孫のつが出てきたげな。そしたら、婆さんですね、やはり。合楽教会のことを思いよったけれども、はぁ、康代がことば、ま一遍、願わんならんと思うて、実をいうたら、親先生、合楽教会大発展を願うはずでしたけれども、たまたま出てきたのが、康代のでしたから、実は、康代のお届けをしましたが、ね。実は、合楽教会大発展を願う。明日からは、その事を願わせて頂くと言うておりました。その、願わせて頂くというのも、自分の心に、喜びが帰ってくるところまで、願わにゃ駄目なんです。ね。喜びは、ね。ほんなら、早川さんが、ね。もう、あげな見苦しい、例えば、顔色にはなっちゃならないと、ね。家内が、主人に向かって口答えしておったり、子供を、いわば、親がじゃない、反対、ね。親を、子供が、その、罵倒しておる姿というものはです。もう、本当に、見られた様ではない。そういうものが、自分の心のなかにあった。自分の過去においては、そういうこともあったことを思うて、相すまんことであった、改まろう。これからは、あげな声どん、するまいと決心した時です、喜びが湧いてきた。それが、神様の願いであったからなのです。合楽教会の大発展を願うという事が、ね。神様が、願うてござる願いと、ぴったりした所から、どっから湧いてくるか、合楽教会大発展を願いよったら、喜びが湧いてくるです。そのだから、喜びの湧いてくるところまで、願わなければいけない。喜びの湧いてくるところまで、決心をするなら、決心をしなければいけないということになる。そういう、そういう心で、念ずることが、一念力というのだと言う御理解でした。様々な事で、方法を持って、念力を、いわば、その演出するとか、演劇すると言ったようなものではなくて、ね。金光様のご信心は、どこを持っても、願いである。ね。ここで、新聞が、願いという新聞が出ておりましたね。喜びを持って根とするのである。ね。その、喜びを持って、根とする、その喜びの心を持って願うのである。ね。
ちょうど、今日、マルショウでございましたから、ね。その、今、言う、康代さんと、それから、則之さんと兄妹二人で、今日は、マルショウに参加しておるわけです。そして、一時の御祈念修行にも参加して、私が、四時、下がるちょっと前に、兄妹二人で、ここでお届けに出てきた。今から帰りますけん、姉ちゃんがことを、弟がお願いしていくんですよ。(感動して)あんた、まるきりあんた、あの、弟が方が兄ちゃんのごたるねち言うてから、今日は言ったことでした。もう、本当にもう、学校行くときでも、こう雑嚢なんかでも、その、弟が、こうやって持って行ってやるそうです。もう、持たれんくらいに、こげんしとるち言う、腕が。もう、とってもこげん、これから以上痩せられまいと言う姿じゃった。まぁ、兄妹が二人、帰っていく姿を、後姿を、それこそ、思わせていただいて、四時の御祈念に、その事を、もう、繰り返し繰り返し、北康代、北康代を願っておりましたらです。私の御神願に、私の孫であるところの、聡子が、ニコニコとしておる姿を頂いた。
これは、私は、若先生にも、嫁の良子にも、この事を、この話を聞いてもらわねばならないと思うのでございますけれども、ね。この頃から、ちょうどこう、百日咳のように、もう、非常に咳をするんです。もう、それが苦しいから、この頃はもう、もう、悪うごとなかごとある。もの言うたっちゃ、向こう向くごたる風にしとりますもん。毎晩、咳き出すと、引付を起こすわけです。それで、夫婦のものが、夜中にでも何でも、私が所へ、また、お願いにやってくるんです。そうすると、また、安らかに休む。そういう繰り返しを、こう、幾日続けておるわけでございます。ね。だから、今朝から、家内が申しますとに、良子さんが、あーたもう、ご飯も食べもせんち。はっはは、聡子が食べんち言うならよかばってん、嫁後まで食べんちは、そら、どういうわけじゃろか。心配のあまり、いわば、ご飯がいけんち言うごたる。それこそ、まぁだ、今からあんた、何人、幾人も、それこそ、産みもしなければ、育てもしなければならんのが、ね。このくらいの事で、へこたれて、どうするのと言うて、まぁ、励ましましたという事を、家内が言ってましたけれども、ね。親は、子供が具合が悪いと、ご飯もいけん、喉を通らんようにある。
けれども、信心というのは、そういう時が、一番大事であり、そういう時が、一番、力を受ける時である。ね。そういう時にです。いうなら、ままよという心になってと仰る。ままよとは、死んでも、ままよという様な心で、神にすがってやれば、おかげになると仰る、体験をです、ね。夫婦のものが、頂かせてもらわなければならない。機会を与えられておるのである。ほんなら、私が、今日、康代さんが事を、しきりに、繰り返し繰り返し、願わせて頂いておりましたら、聡子が、ニコニコとしておるところを頂くという事は、どういうことなんでしょう。いうならば、他所の孫のことであり、他所の子の事を、一生懸命、願いよればです。ね。自分の孫やら、子供やらは、神様が助けてくださる。そこに、初めて、神様の力が発揮されよい状態というものがあるわけです。神様のおかげを受ける体験を、そこに頂くところのチャンスに恵まれるわけである。ただ、どうぞ、子供可愛さ、孫可愛さに、どうぞ、康代がどうぞ、なら、聡子がと言うて、私が願うた分では、おかげになっても、それは、大したことは無いけれども、ね。その事は、ままよという様な心でです。いわゆる、合楽教会大発展を願うて行けばという事である。ね。
いうならば、四神様が仰った。自分の子供と、他所の子供が、二人一緒にこけたら、お前は、どちらを起こすかと仰った。そら、やっぱり、自分の子供を起こしますとこう言う。ね。他人の子を起こす気になると、ね。お前の子は、神が起こしてやると仰った。ね。神が起こしてくださるところのおかげを頂いてこそ、はじめて、神様を知ることが出来るのである。ね。
皆さんに、今日は、片便の願い捨てではない。いわば、お願いをして、お取次ぎを頂いて、今、頂いてくださっておる。だから、頂いて、帰って下さらなければならない。それに、先ずはです、自分の隣の事が、真剣に願えれる。いうならばです、隣は、どうでんこうでん、いっちょ、損すりゃええが、いっちょ、隣は、ほんなら、病気すりゃよかがという様な思いを持っておるなら、いざ知らず。そら、そげな願いは、白ごとになる。けれども、どうでも、隣近所も、繁盛しなさらなければと思うならです。ばってん、祈るという所までは行ってないのでしょうが。ね。ほんなら、袖すりあうも多少の縁と言うてです。ほんなら、はぁ、そこに気の毒な人を見る時にです。ね。はぁ、気の毒だ、かわいそうだと思うても、それを、祈ると言うとこまで行かないでしょう。それを、祈っていくうちにです。いわゆる、神様の喜びを引き出すところまで祈っていくのである。ね。人の事までも、願えれるようになった事を、神様は、喜んでくださるのである。ね。合楽教会、大発展を真実、心の底から、喜びが湧くほどしの祈りをもって、願わしていただく、そのところから、心に喜びが湧いてくる。その喜びの心をもって、あれも願い、これも願いしたら良いのである。ね。喜びの心を持って願う。これが一念力。桜井先生、そこでした、ね。だから、私は、桜井先生の、そのお書物の扉のところに、一念力という事を書いてやった。ね。その喜びの心をもって念ずる。それがね、金光教で言う念力なんです。もう、絶対に通う力。念力です。ね。
いよいよ、今日から、向こう一月間、夏季修行が始まっております。もう、今まで、かってないほどの大盛況でした、今日は。ね。今日、初めて、普通の日に、千名のお参りがあるだろうと、お届けがあるだろうと。今日のお届けを、私が、四時、下がるときまで、もう、八百名近くありました。もう、合楽教会が、始まって、初めて、普通の日にですよ、ね。大祭とか、何とかは別ですけれども。初めてです、ね。恐らく、今日のお祭りを終わって、後でしたら、恐らく、千名になるだろうと思います。ね。そういう、例えば、千名もの人の力がです、ね。合楽教会大発展を、願えることになったら、どういう事になるでしょう。一人の力は、これだけであっても、ね。千も、それが集まったら、大変な力になる。その力が、ね。神様の喜びを引き出す。神様の働きを、働かせずにはおかんという働きになってくる。
今日、前講を、上野先生が勤めておりましたが、ちょうどもう、今日で、十日間、断食しております。それが、どうでしょう。食べられんけん、もう、今日も食べられん、明日も食べられんち言うのだったら、もう、死んでしまうごとあるじゃろうと思う。こんな悲しい事はなかろうと思う。ね。今日も、私は、もう、しかも無期限ですから、何時お許しが出るとじゃら分からんとじゃん。それでもう、お取次ぎさせていただきよる、こっちはもう、気が気じゃないとじゃけん。毎日お願いしよる。今日、お許し頂かんじゃろか、今日、お許し。今日も、私は、お願いさせて頂きよりましたら、頂くことがね、んー、何とか言う、いうなら、人が助かることのための力を、今こそ受けておる時と言う意味のことを頂くんです。ですから、お礼こそ、申し上げんならんばってん、何時、お許し頂くじゃろかてんなんてん言いよる。もう、本当に、上野愛子が、只今、人の助かることのための力を頂いておる修行をさせて頂いておるという事を、私は、師匠として、お礼を申し上げる他にない。本人も、もう、益々、最近、元気です。三四日、きつかごたる、けども、段々、これがすっきりしてくるわけですね。それでいて、ほんならもう、日々の御用も、何時もとは違った、喜び一杯、さっきも話しておりますように、もう、喜び一杯での御用が出来ておるという事。何時、お許しを頂くやら分からない。もう、人間はもう、食という事は、もう、大変な、実をいうたら楽しいことなのである。その楽しみを絶っての願いである。絶っての修行である。ね。それも、いうならば、神様のお心に添い奉りたいと言う一念が、そういう修行にまで発展してくるのでございます。ね。どうぞ、一時からの御祈念があっておりますので、ね。一人でも多くの人が、ね。あの、それこそ、何と言うですかね。もう、たぎる様な、しかも、私は、有難いと思うことは、合楽の場合には、あの、御祈念が、若い方達が中心になってやっておることです。もう、他の方達は、ただ、その感動して、涙ばっかり流しよる人があるくらいに、その、まぁ、熱烈な御祈念修行の会が、一時からあっております。ね。どうでも、それに参加させていただいてです。しかもその、修行の焦点というか、その願いの焦点がです。ま、例えて言うなら、合楽教会大発展であるとするならばです。ね。それを神様の願いに、ぴったりすることなのですから。皆さんお心の上に、感動が湧かないはずがない。その感動の心をもって、ほんなら、願うことは、あれもある、これもあるのでございますから、願っていく。それを一念力というと言うのであります。ね。
片便の願い捨て。今までは、どこへ参っても、片便の願い捨てと言われたが、ね。ここへお参りをさせて頂くとです。片便の願い捨てではなくてお取次ぎを願って、お取次ぎを頂いて帰れる。返事を頂いて帰れる。今日は、そこんところをね、頂いて帰っていただきたいと思うのです。どうぞ。